2015年10月03日

喪失体験の正体

※この記事のタイトルは、kyupin先生のブログカテゴリの一つ「内因性の正体」のオマージュである。

先日、知人のお父さんが突然死した。自殺などではなく、心臓が原因の病死だった。亡くなった本人は前日まで普通に生活していたらしいが、ある日突然朝起きて来なかったそうだ。その影響で、お母さんが精神的に大きなダメージを受けてなかなか立ち直れずにいるという話を聞いた。

人が亡くなる場合、病気でゆっくりと死ぬよりも、突然死する方が周囲にとってダメージが大きいらしい。心の準備ができないからである。後に残される人々にとっては、お別れの言葉も言えないし、してあげられなかったことを後悔することも多いだろう。何より、その瞬間まで故人がいない生活というのを想像できないというのが一番大きい。たぶん、人の死に方で、亡くなることが前もって予想できるかどうかが、周囲の人の精神に大きな影響を与えると思う。

話は変わるが、ある時、霊能力者がこんなことを言っていた。

「私は亡くなった人と話ができますが、それでも悲しみは消えません。彼らと私たちでは住んでいる場所が違うんです。だから、話はできても悲しいんです。」

これはどういうことだろうか?その能力が本物かどうかは別として、亡くなった人と話ができても悲しいのか?私はこれについて少し考えてみた。すると、確かに何となく理解できそうな気がした。

例えば、あなたの身近にいる人が亡くなったとしよう。でも特別に、あなただけは故人と電話では話すことができる。亡くなった人と会話したければ、いつでも電話で話せる。でも、一緒に住むことはできないし、その人の映像も見ることはできない。故人がこちらの世界に影響を与えるようなこと(例えば、物を送るとか)は何一つできない。この状況はどう思うだろうか?私は、非常に悲しいと思う。この状態には、何かが欠けている。

この状況は、ホームシックと似ている。私は海外でしばらく一人で生活したことがあるが、私にとって最初の数週間は、家族がおらず、周囲と言葉も通じなかったため、非常に寂しかった。電話やインターネットで日本にいる家族と会話はできたが、それでも辛かった。この時感じたのは、“人間は、近くにいないと心の支えにならない”ということである。遠く離れた日本にいる家族がどうして自分の支えとなるだろうか?私は自分で道を切り開くしかなかった。

おそらく、喪失体験の正体は、そういう感覚と大きくは外れまい。喪失体験は、“単に会えないだけ”ではなく、“二度と会えない遠くに行ってしまった”という脳の認識の仕方にあるのかもしれない。脳は、故人が亡くなって会えないという状況を、「実際の物理的な距離」として認識しているように思える。まして、霊能力者でもない人が身近な人を失えば、一切の通信の手段を失う。それが心に大きなダメージを与えるのだろう。

昔から、私たちは人が亡くなることを、「旅立った」とか「見送った」と表現してきた。意外にも、喪失体験の正体は、このような言葉に如実に表されている。


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posted by 良源 at 00:00| 脳科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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